苦悩がいつか懐かしい場所になる

久しく遠ざかっていた高橋巌さんの新刊書を手にした。

タイトルは「シュタイナー 生命の教育」

若いころにi幾度、シュタイナーや高橋巌さんの書籍を手にしたことだろう。

しかし、シュタイナーの教えを深く、自分の経験にすることができなかった。

今でも私の一番の愛読書は、「ヨーロッパの闇と光」で、ここで引用されているゲーテの言葉「感覚はあやまたない、判断が誤る」は座右の銘で、20年以上経った今もその思いは変わることがない。

いやむしろ、この書籍で語られる「感覚の優位」がますます自分の中心を占めていることが解る。

しかし高橋巌さんに対する畏敬の念とは反対に、何故かシュタイナーやドイツローマン派との距離を縮めることはできない。

ノヴァーリスやゲーテ、リルケ、フリードリヒは遠い存在になってしまった。

しかし、久しぶりに手にした「シュタイナー 生命の教育」の中で多くの素晴らしい言葉と出会うことができた。

その一つ、「苦悩がいつか懐かしい場所になる」

これは、リルケの「ドゥイノの悲歌」を高橋巌さんが解釈したもので、この苦悩は

「本当はこの世をものすごく愛している、だからこそなんとか自分で納得のできる人生にしたい、ということを前提にした上での苦悩だと思います」と書いてあり、

そして「自分の苦悩の体験は、自分の成長のプロセスになったり、自分のこの世への愛情の表現になったりする、ということなのだろうと思います。」と書き足している。

「この世を愛するがゆえに生まれる苦悩」

同じ苦悩なら「この世を愛するがゆえの苦悩」を持ちたいと思った。

また、『「苦悩を通過した明るさ」を語るときは、過去も未来も要らなくて、瞬間が永遠になる境地なのです。
その瞬間を、永遠に到る境地から引きずり出して、重たい過去を背負わせようとするのが知識であり、常識です。』

という文章に、禅や仏教が求めている境地に近しいものを感じる。

この本を手に取り、初めて神秘主義がシュタイナーが少し身近なものに感じられた。

しかし、私は「苦悩を通過した明るさ」を語るために、シュタイナーやドイツローマン派を必要とすることはないと思う。

今は、違うものから、違う方法で「苦悩を通過した明るさ」を感じ、語りたいと思っている。

私に、感覚の大切さを教えてくれた神秘主義とドイツローマン派に感謝しながら。