夏芙蓉、オリュウノオバ、高貴な汚れた血、そして路地。
夏の日差しの中に咲く芙蓉を見ると、中上健二の世界が過剰に想起される。
光当たる場所から見る路地の闇の世界。
路地の中で濃厚に繰り広げられる生と性と若者の死。
世界が白々とした明るさを持つほどに、他界としての路地は暗さを増す。
夏の強い光が、濃い影を生み出すように。
新宮にあったこの路地が更地になり、新しいビルが建つように、この国から多くの路地が消えていった。
路地の闇が消えていくほどに、人の心の闇が増えていくような気がする。
世界が平坦に美しくなるほどに、私たちは息苦しくなるのかもしれない。
人が生きるというその根底には、得たいの知れない渦巻くエネルギーが在るのだろう。
中上健二の「千年の愉楽」には、私たちが忘れてはいけない、生き物としての人の在りようが書かれている。
「オリュウノオバは霊魂のオリュウノオバにむかって、いつも床に臥ったままになってから身辺の世話や食事の世話をしてくれる路地の何人もの女らに訊かれて答えるように言って、霊魂のオリュウノオバが風にふわりと舞い、浜伝いに船が一隻引き上げられた方に行くのを見ていまさらながら何もかもが愉快だと思うのだった。オリュウノオバは自由だった。見ようと思えば何もかも見えたし耳にしようと思えば天からの自分を迎えにくる御人らの奏でる楽の音さえもそれがはるか彼方、輪廻の波の向うのものだったとしても聴く事は出来た。」
中上健二「千年の愉楽」