朝には、朝の色がある。
朝を、知らせる光がある。
夕べには、夕べの色がある。
夕べを、知らせる光がある。
光と風の交わる場所で
「私は 古い池に 蛙が 飛び込む音を 聞いた」
この状況を芭蕉は、
「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」
と俳句にした。
実際にこの 「水のおと」 を聞いたのは芭蕉だけであり、私には空想することしかできない。
そしてこの空想は、どんどん拡がり、日がな一日この俳句が、私の内を去来する。
この芭蕉によって開示された世界は、途方もなく豊かで大きく、様々な光景となり、音となり、光となる。
この音を聞いた瞬間の世界から、少し過去へ、少し未来へ、芭蕉以前の世界へ、芭蕉以後の世界へ、
太古の世界へ、無の世界へと「水のおと」の波紋が広がる。
芭蕉はこの俳句で自分の経験をきっちりと語り、そして自分を消す。
「私は 古い池に 蛙が 飛び込む音を 聞いた」
この極めて私的な芭蕉のこころの有り様が、存在すべてに思いを巡らすほどに私を捉える。
芭蕉という個性が、時間を超え、土地を越え、普遍性として、大いなる存在として、私には感じられる。
15文字の曼荼羅。非自己であることの存在。その豊かさ。
いつの日にか、芭蕉と同じ「水のおと」を聞くことができるのだろうか。