エルクはどこにでもいるよ

エルク、私は感じたよ。

あの日、エルクがエルクの犬としてのボディを離れていくのを。

少し苦しそうな息が、小さくて穏やかな呼吸に変わって

エルクのボディからゆっくりとエルクの魂が出て行くのを感じたよ。

エルクを抱きかかえながら、私はエルクがゆっくりとゆっくりと

身体から抜け出て、光となっていくのを

そしてその光が、私たちを包み、サテちゃんを包み、

この家を包み、そして空に

宇宙に広がっていくのを感じたよ。

犬としてのエルクの役割が終わり、また原始の宇宙

すべての始まりの光に戻ったのだね。

それからは、雨にも風にも道ばたの花にも

エルクの存在を感じることが出来るよ。

おまえは、とても大きな存在だったけど

それを超えて、もっと、もっと大きな存在になったね。

エルク、私は知ったよ。

この世界は、生まれることも、滅びることも

増えることも、減ることもないのだと。

すべては、最初のままなのだ。

私の中にエルクがいて、エルクの中にも私たちがいて

すべての生き物には、すべての人たちがいて、

ありとあらゆるもの、すべてのものに、私たちは、含まれているのだ。

私たちは一つなのだと。

私は毎日、エルクのことを思い出すと泣いてしまうのだけれど、

悲しいからではないのだ。

おまえと出会えたことが嬉しくて、ありがたくて

暖かいものがこみ上げてくるのだよ。

だから安心してくれていいよ。

生きることは素敵なことだと、エルクが教えてくれたから。

エルクが残してくれたものがあまりに大きくて

お礼の言葉もないけれど、エルク本当にどうもありがとう。

“エルクはどこにでもいるよ” への2件の返信

  1. 昨日の事ですが、母親と京都山国にある常照皇寺に行ってきました。

    この、とても歴史ある高貴な山寺には「御車返しの桜」「九重桜」「左近桜」そして九重桜の子木がありますが、
    これは樹齢順でもあります。

    見始めて直ぐ気がついたことですが、すでに御車返しは花も無く、枝もなく、背の低いすっかり朽ちたオブジェのような樹幹が、微かな生気を感じさすばかりでしたが、
    その樹幹の間から、まばゆいばかりの無垢な新緑の葉が垣間見え、その生の折り合いの妙に、暫し視線を引き付けられました。

    でも、そればかりではありませんでした。

    ここ何十年、このお寺の桜の象徴でもあったであろう国の天然記念物、二俣の九重桜の一つが朽ちて倒れ、これまたオブジェのように細い鉄柵に囲まれていました。

    更に、少し背高のある片方も、以前あった枝は無く、上方のなんとかあるか細い枝から、天上から光を微かに注ぐように細やかな花が枝下咲いていました。

    ノブさんの新たな美しい悲しみの語りに接し、
    思い出し、語りたくなりました。

    更にその前日、
    大阪茶屋町の一角にある、学校の旧敷地を利用したところで、茶目っ気な猫と、憂欝気質の猫さん二匹に出会いました。

    もう生猫なのに、元気なワンちゃんのようにコミカルにジャレてくる猫さんと、南国のような植物に隠れるように憂欝そうな白い猫、とても印象に残り、
    また会いに行こうと思いました。

  2. ラピスさん 素敵な話をありがとう。
    高齢の桜は死と再生の物語を紡ぎながら咲くのでしょうね。

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