エルクはどこにでもいるよ

エルク、私は感じたよ。

あの日、エルクがエルクの犬としてのボディを離れていくのを。

少し苦しそうな息が、小さくて穏やかな呼吸に変わって

エルクのボディからゆっくりとエルクの魂が出て行くのを感じたよ。

エルクを抱きかかえながら、私はエルクがゆっくりとゆっくりと

身体から抜け出て、光となっていくのを

そしてその光が、私たちを包み、サテちゃんを包み、

この家を包み、そして空に

宇宙に広がっていくのを感じたよ。

犬としてのエルクの役割が終わり、また原始の宇宙

すべての始まりの光に戻ったのだね。

それからは、雨にも風にも道ばたの花にも

エルクの存在を感じることが出来るよ。

おまえは、とても大きな存在だったけど

それを超えて、もっと、もっと大きな存在になったね。

エルク、私は知ったよ。

この世界は、生まれることも、滅びることも

増えることも、減ることもないのだと。

すべては、最初のままなのだ。

私の中にエルクがいて、エルクの中にも私たちがいて

すべての生き物には、すべての人たちがいて、

ありとあらゆるもの、すべてのものに、私たちは、含まれているのだ。

私たちは一つなのだと。

私は毎日、エルクのことを思い出すと泣いてしまうのだけれど、

悲しいからではないのだ。

おまえと出会えたことが嬉しくて、ありがたくて

暖かいものがこみ上げてくるのだよ。

だから安心してくれていいよ。

生きることは素敵なことだと、エルクが教えてくれたから。

エルクが残してくれたものがあまりに大きくて

お礼の言葉もないけれど、エルク本当にどうもありがとう。

エルちゃん劇場終わりました

春の穏やかな日、

遠くで救急車のサイレンが鳴り

吉野行きの電車の音がかすんで聞こえる。

風にのった花びらが

どこからともなく、舞飛んでくる。

鶯やコジュケイの声がこだまする。

朝の散歩から帰り、

おいしそうにご飯を食べた後

ヨーグルトのパックをなめていたエルク。

急に発作を起こして、

数分後私たちの腕の中で

エルクの魂はボディを離れました。

そのことがまるで当然であるかのように

エルクは、光になり、宇宙に広がって行きました。

この長閑かな春の日

エルクの息する音が聞こえてきません。

エルクと呼んで駆け寄る姿がみえません。

雉の鳴き声は聞こえるのに、エルクの足音が聞こえません。

前回の発作から1ヶ月

私はエルクから多くのことを学びました。

死のこと

大切なものを失うこと

エルクの発作を通して

大きな気づきもありました。

でもエルクが私に与えてくれた最大のものは

愛するという心、慈しむこころ

愛おしいという思いです。

私は涙を拭きながら、この文書を書いています。

この涙には、エルクを失った悲しみの他にも

生きることの意味、死の意味、

愛すること、思うこと

生きていくこと

人が人であるために大切なこと

悲しみ、慈しみ、

喜び、楽しみ

すべてのものが混ざり合った涙です。

エルクが私に愛すること、慈しむことを

教えてくれなければ、私はただ悲しみの涙を流したでしょう。

エルクほんとうにありがとう。

どんな感謝をしても言葉がありません。

エルク、エルク、エルク

ほんとに、ほんとにありがとう。

エルク、愛しているよ。

芭蕉の音

「私は 古い池に 蛙が 飛び込む音を 聞いた」

この状況を芭蕉は、

「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」

と俳句にした。

実際にこの 「水のおと」 を聞いたのは芭蕉だけであり、私には空想することしかできない。

そしてこの空想は、どんどん拡がり、日がな一日この俳句が、私の内を去来する。

この芭蕉によって開示された世界は、途方もなく豊かで大きく、様々な光景となり、音となり、光となる。

この音を聞いた瞬間の世界から、少し過去へ、少し未来へ、芭蕉以前の世界へ、芭蕉以後の世界へ、

太古の世界へ、無の世界へと「水のおと」の波紋が広がる。

 

芭蕉はこの俳句で自分の経験をきっちりと語り、そして自分を消す。

「私は 古い池に 蛙が 飛び込む音を 聞いた」

この極めて私的な芭蕉のこころの有り様が、存在すべてに思いを巡らすほどに私を捉える。

芭蕉という個性が、時間を超え、土地を越え、普遍性として、大いなる存在として、私には感じられる。

15文字の曼荼羅。非自己であることの存在。その豊かさ。

いつの日にか、芭蕉と同じ「水のおと」を聞くことができるのだろうか。

 

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