私が気づくその前に

なぜかと問う前に、カメラを向けてシャッターを切る。

パソコンのディスプレイに向かい、なぜかとまた問う。

この5枚の写真を見ながら「私は自由ではない」とつぶやく。

違うと頭を振りながら、意識は沈黙する。

何を知りたくて写真を撮るのか。

何かを手放したくて写真をとるのか。

自分を求めなくなる日が来ることを、どこかで望んでいる。

 

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“私が気づくその前に” への4件の返信

  1.             

    もう真夏です。

    何時も負性は顔を出すものと、気楽を決め込む私にはその真面目さはありません。

    でも他人事とすましていては、いつか自身に経験不足が振りかざしてくるやも知れないですね。

    スティーブ・レイシーは巧く演奏できなかった時の方が負性を検証しやすいと言っていました。

    3はどことなくアンドリュー・ワイエスを思い浮べました。
    光と空は差別することなくどこにでも現われます。

    4の階段、
    この事物のもつア・プリオリな意味を越境するのは、何かの要請なのでしょうね。

  2.             

    私も若い頃から、階段は何回か出会ってきました。

    中央市場の中にあった古いアパートの階段しかり、

    今は無き、薄暗いピラミッドの地下へ降りていくかのような、梅田の地下街への階段、
    手仕事のコンクリート壁・タイルが随分古くなってアート化し、隙間からは暗く澱んだような少量の水脈が、滲み滴り落ちる…
    そして主人公である階段には、下界の光が一筋舞い下りて、階段の真ん中を心理学的な動揺を与えるが如く、差し込み照らしている。

    その明かされた一筋の光の階段には、血脈のような割れ目が痛感を響かせるように顕在、
    更に、‘因果交流電燈の青白い照明(宮沢賢治)’であるかのような、薄汚れた蛍光灯が程よい明かりを放ち、これ以上ない閉ざされた感覚を曝していた‥
    階段しかり、

    そして、喧騒の小樽運河の裏に静かに佇む、丘のような小山、頂上に象徴である神社があり、水天宮と通称されている。
    そこにも港側に外人坂の石段があり、坂の途中には
    昔住んでいた貿易商のドイツ人邸宅の廃墟がある。

    階段は頂上の神社の道案内であると同時に、
    外国人邸宅の廃墟を横に、正面の小樽港の埠頭を海を空を眺める。
    そこには無国籍的な感覚がある。
    そんな階段しかりです。

    ノブさんの未だ無いところの石段一つ一つを個別に眺めていると、そんな様々な想いが去来します。

  3. 感じたままを書きます。
    上の3枚。
    血の滲むような苦痛の影が見えます。
    切り口の鋭さに驚きますが、特に1枚目の枯草。技を超えた祈りのようなものを感じます。
    私には撮れません。
    以前、「表現は悪魔の誘惑だ。」と書きました。
    知らず知らずの内に表現そのものの内包する魅力に取り付かれてしまうのが怖いからです。
    「私は自由ではない。」
    何故、それ、をそのように撮るのか、
    自分自身、理解出来ない時がある。
    それは不自由なのか!
    それとも、自分という狭い範疇を超えた何事かに感覚が素直に従い、自由に振舞った結果ではないのか。
    下の2枚はよく解りません。

      追伸。
    デジ一買いました。

  4. 私もデジ一ではないのですが、扱いにくいコンデジを買いました。
    この5枚の写真はそのカメラで撮ったものです。

    以前に比べて、見ることの濃度を上げています。
    上3枚の写真は、息苦しいほどに自分を追い込んだ写真です。

    下の2枚は、ある意味で甘い写真なのですが、この部分を許容しないと、撮影という作業自体が進まないのです。

    上から3枚目の写真は、数日撮り続けて、なお自分の感じた部分が表出されないもどかしさがあります。

    なぜそれを撮るのかを知りたくて、またそれを撮る。
    カールが書いたように、「何事かに感覚が素直に従う」といことは、とても大変な作業で、少し気を抜くと自由に振舞ったつもりで、とても不自由な自分に出会うことになるのです。
    だから「私は自由ではない。」のです。

    もっともっと、自分という狭い範疇を超えて、感覚が出会わなければならないのです。

    今回使っているコンデジは、扱いにくいのですが、上手く整ったときの描写力はすごくて、1番上の写真などは、自分で見入ってしまうほどです。中判に近い感覚があります。

    それでは、また

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