光を見る密度

久しぶりに朝日の輝いた日、四つの光と出会った。

雨上がりのアスファルトに反射する強い光

寝起きの眼には眩しく、直線的に輝く。

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雨の雫に透明に輝く光

木々の梢に、響き渡るように輝く。

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遠くの家々を照らす雲間からの光

流れる雲の移動に光が彷徨い、家の上に降り注ぐ。

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下町の路地に残る午後の光

生活の場を照らす光は、温かく輝いて見えた。

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光を求め、光に求められた一日。

 

 

 

モノクロームの憂鬱

なぜモノクロームに惹かれるのか。

どうして、モノクロームで撮る街は寂しいのか。

即物的に配置される街の風景と少し距離をとり、そして、眺める。

モノクロームに単純化される風景は、表層を取り落としたように、どこか物憂げで寂しい。

カラー写真に比べて、より心象が表現されやすいのだろうか。

それとも、心象的な風景に私自身が反応しやすいのだろうか。

街で撮影するモノクロームは、いつも、どこか、憂鬱だ。

 

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二人の友人に

私の写真を見てくれてありがとう。特に携帯で見てくれているラピスさんには感謝します。

二人のコメントに対する返信と、写真に対する思いを書きます。

私は写真を自分の感性を広げる、自分の知らない自分の感覚を発掘する道具として、使ってきました。

この1年間は、心の琴線に微かに触れる感覚を大切に、まず感情を豊かに満たす光景と出会うことを楽しみに、写真を撮ってきました。

それが「光の庭」や「白い朝」の写真です。

私はこの撮影を通じて、私の新しい感性と数多く出会うことができました。光と出会い、風を感じ、霧の日には浮遊する水滴に身体を包まれながら撮影しました。同じ場所でありながら、いつも違う感覚を与えてくれました。
私はこれらの被写体に自分の心をそっと置いて撮影しました。

「モノクロームモノローグ」の写真の数点は二人とも知っているもので、私の作業の歴史とその時点での到達点です。
私はこの撮影で、透明で深遠な魂をイメージしていました。ローライとハッセルを使いモノクロームのフィルムで撮影された写真は、はやり表現に厚みがあり、私にとって好ましいものです。しかし今現在の状況でこの作業を続けることは難しく(年齢的にも)、やはり、デジタルカメラでの撮影になります。
後半の数点は、デジタルカメラでの作業で、少し厚みを欠いたモノクロームの表現と成っています。

その場から受けた感覚を明確にするために、ゆっくりと自分の感覚と対峙し、その場を獲得するために撮影することもあります。その写真の多くは消え去るのですが、ごくたまに獲得されることがあるのです。
それが「路地のある町」にある「ペプシの看板」のある写真です。

私は撮影の時点で、この場を強く意識しています。雑然とした光景を捉え、距離を変え、パースを考え行きつ戻りつした撮影です。

この写真はまず全体を見なければ、細部を知ることはできません。
この写真が私の「自我」というなら、尚のこと、全体を知らなければ成らないのです。
そしてこの写真は「経験の成り行き」ではなくて、「経験の獲得」なのです。

この写真は緻密です。少し意識が逸れると、その瞬間に見失ってしまう感覚を、どうにか繋ぎとめて撮影しました。前景の自転車と背景のビルとの距離、重なりなど、ファインダーを見、検証しながらの撮影でした。ある意味で疲れる撮影でした。

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私は、写真が自分の感性を豊かにしてくれる道具として使いたいと思っています。

新しい感性の出会いの道具として使いたいのです。
だから一度獲得した表現を「手放し」ながらの作業となるのです。
自分が多様であるための唯一の方法だと思っています。

自分とは何かと言葉に出す代わりに、シャッターを切るのです。

それでは、また