私が気づくその前に

なぜかと問う前に、カメラを向けてシャッターを切る。

パソコンのディスプレイに向かい、なぜかとまた問う。

この5枚の写真を見ながら「私は自由ではない」とつぶやく。

違うと頭を振りながら、意識は沈黙する。

何を知りたくて写真を撮るのか。

何かを手放したくて写真をとるのか。

自分を求めなくなる日が来ることを、どこかで望んでいる。

 

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合歓の花

天川への道すがら、丹生川上神社下社を過ぎたところに合歓の花が咲いていた。

この季節、雨の中で合歓の花を見ると決まって芭蕉の奥の細道を思い出す。

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくわへて、地勢魂をなやますに似たり

の文章に次の句が続く。

「象潟や雨に西施がねぶの花」

西施という絶世の美女に象潟を重ねて、梅雨に咲く合歓の花を匠に句にしている。

しかしどのような景色を見れば「寂しさに悲しみをくわへて、」という言葉が出てくるのだろう。

合歓の花に西施の面影を感じて、そこから想像が広がったのだろうか。

天才俳人の恐ろしいまでの想像力を感じる。

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コダクロームの憂鬱

コダクロームの現像が中止になるというニュースを読んだ。

もう20年以上も使ったことのないフィルム。

最近はデジタルカメラでの撮影が多く、その存在さへ記憶の彼方に消えていたのに。

もうコダクロームで撮影出来ないという思いが、ものすごい欠如感を伴って去来する。

失ったものは大きい。

 

あの発色。深み。

暗部の中にさへ階調を伴い、白い雲さへ、豊かなグラデーションを演出する。

物質の奥へ、風景の深部へと見るものを誘う。

一度だけ、叶わないと知りながら、一度だけでいい

10本のコダクロームKRを持って旅に出たい。

知らない瀬戸内の町を、少し重みのあるニコンF3Pと歩いてみたい。

レンズは、50mmを1本だけ。

斜光の美しい漁港で、こころ行くまで、ファインダーを見ていたい。

ゆっくりとレバーを巻き上げる。

パトローネからフィルムが巻き取られる感覚。

絞りのリングを半分動かそう。

KRはオーバーに弱いから。

しかしシャドウは絶対に潰せない。

ぎりぎりに露出を切りつめる。

カメラと光と風景とフィルムが一つになる至高の瞬間。

シャッターが切れ、ミラーがあがる。

ファインダーが一瞬暗くなり、微かなショックが腕に伝わる。

カメラから目を離すと、きっと浜風と海鳥の声が聞こえてくるだろう。

切り取られた風景は、記憶より、なお鮮やかに、コダクロームに刻まれる。

デジタルカメラでは絶対に味わえないものを、また失ってしまった。

 

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